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「マサが行く」の原作者、原田諦の飲食無料メール相談実施中です
(10)より続く

中山公園店の「京都ラーメン」を閉店を決めることになった私は、従業員の全員解雇に当ることにした。しかし、一号店は営業を続けることにしていたことから、その中から数人の人材を残して全ての従業員を解雇することにしたのである。

と ころが、給料日、ゴタゴタが起きてしまったのでした。中国ではサービス業に従事する従業員へ「三金」と言われる日本の社会保険的税金を雇用側が政府の事務 所へ支払うのですが、その金額は、支払い給料の38%に相当するのです。ところが、王君はこの費用を含む金額で従業員の雇用をしていると言うのですが、契 約書もありません。

彼らは、これを言い訳に、直接自分たちに支払って欲しいと言い出したのです。
このルールを破るわけには行きません。ところが、この保険税には不公平な部分があったのです地方出身者と上海在住者では、全く異なるのでした。
(9)より続く

こうして中山公園店がオープンしました。
折角のオープンでしたが、私は上海へ行くことができずに彼らに任せたオープンです。


報告では、なんとも凄いお客様で1日400人以上のお客が来店したと言うことでした。
日本では、社員達も祝福していましたが、私には不安がありました。

日本のラーメン店ですから、最初は興味半々で来店してくれるに違いない。しかし、本当に満足してもらえる商品、サービスだったのだろうか、とても不安だったのです。

それから一週間後、私は上海へ行きました。早速、二号店の中山公園店をチェックしたのですが、ちょうどランチタイムが終了したばかりでしたが、お客が店内には未だ満席でした。

しかし、お客の表情は決してよくありません。商品提供が遅すぎるのです。あるお客は、怒って帰ってしまうし、オーダーを間違えているし、それでもお客が多いからフォローもしていないサービス担当者。
二号店の立地をこの中山公園地下鉄ビルに決めた私は、いよいよ、契約交渉に入ったのです。
しかし、通訳を専門家に任せるべきであったが、これを王君夫婦に任せたのは
大変な誤算でした。


このビルはガス燃料が使えないのです。電気調理でラーメンを作ることができません。しかも、中国の電気料金はべらぼうに高いことから、これで前に進むことができなくなっていたのでした。

そこで、一号店を利用して、スープと麺を加工して中山公園店まで運ぶことにしました。
そこまで決定して、私は一時帰国したのですが、その後王君が暴走を始めたのでした。

日本の会社へ報告もせずに新車のワゴン車を購入してしまいました。理由は、スープと麺を運ぶためと言う理由です。
こうして、半年近くたったあるときのことです。名古屋に会社を持っている中国旅行者の社長から、中国でラーメン店の展開をしたいとの申し入れがあったのです。

ここから、私の苦悩がはじまったのでした。

依頼を受けた私は、その社長と会社の海外担当社員を連れて、中国へ調査に出かけました。
長春から吉林、そして北京から上海へ。

このそれぞれの地に旅行会社の社長がいるとの事で挨拶と打ち合わせに出かけたのでした。
上海では、前の店の従業員さんが待っていることから安心でもありました。
5,000万円を残すばかりになったこの店の経営は、一向に売上が伸びずに苦悩するばかりです。それをさ探ってみると、店の管理が殆ど出来ていないのです。

何回と無く注意、指導、改善をするのですが、つきに一回、日本から上海へ来ると、もう何もかも変わってしまっているのです。

この原因は、現地社長の王君が従業員へ、日本から先生が来たときだけは言われたことをやるように!と言い聞かされていたのです。

したがって、レベルは下がるばかりでした。中国人の低レベルで管理されているのですから、この大型飲食店が維持できるはずはありませんでした。

そんな時のことです。ビルのオーナーから呼び出しがありました。
私の経歴を信用して賃借契約を結んであるために、私が出向くほかありません。

オーナーは台湾人で温厚な様子でしたが、取り巻きの社員は上海人ですので、話がけんか腰になってしまいます。

内容は、何と、家賃が一年以上も支払いしていないと言うことでした。
中国では、経理担当者を現場に勤務させているのですが、全てが貸借表に載せていなかったのです。

つまり、支払っていない金額を帳簿上記入しておいて、そのお金を運用していたのです。
資金繰り的には合っても、負債項目が不明だったのです。

こうして一ヶ月7万元、日本円にすると105万円の家賃ですから、すでに1200万円以上の家賃未払いが発生していたのでした。

私は彼を問い詰めてみると、外のエスカレーターの故障で、大家さんが休業補償をするということがまた実施されていないことや、厨房のダフト工事が共同なので、大家さんからその工事配分金額がまだ出てこないと言うことでした。

それにしても、大変な金額ですから、日本の二人の社長と共に相談すると、現地社長の王君が、「このまま店の赤字を続けながら1200万円の家賃を払うならば、閉店した方が良い!」

と言う話が出ました。
決して赤字にはならない状態なのに、管理が出来ない状態と、日本から経営管理を攻められることに懸念しての逃げ腰でした。

私は、経営指導者の立場ですので、この話に口を挟むわけには行きません。
それどころか、これまで教育してきた従業員が全員、私に着いて来ると言って、会社を離れようとしないのです。

彼らには、マニュアル教育から意識教育まで一年以上も施してきたのですから、意識も高まっていたのです。

しかし、店は閉店をすることに決定。
彼らは解雇されました。だが、彼らは4人が一部屋を借りて私が何か経営をしてくれると信じて何処にも働きに出ないのでした。

それどころか、上海まで列車で5時間以上も掛かる地方からワザワザ私が上海へ入ると愛に来てくれる元社員が続出でした。

突然の解雇に、生活もままならないだろうに、これほどまで信じてくれる彼らを単に見捨てることも出来ず、上海へ行くたびに仕事に就けるまでの生活費を渡してきたのです。

自分のできることの範囲で月に10万円くらいでしたが、これを両社長へ伝えることはありませんでした。

こうして、半年近くたったあるときのことです。名古屋に会社を持っている中国旅行者の社長から、中国でラーメン店の展開をしたいとの申し入れがあったのです。

ここから、私の苦悩がはじまったのでした。
この記事は、私が上海進出することになった経緯と、そのストーリーを書いています。
(5)より続く

契約も無事に終わり、内装工事に掛かりました。店舗面積は100坪強です。総投資額3,500万円。内装デザインは黒野氏が担当することになったのですが、彼は凝り性であることから、工事業者とのトラブルが相次いで中々前に進まない。

中国の工事は簡単で、黒野氏はタイルをふんだんに使用して豪華な店を作り出した。
私は、ビュッフェスタイルのコーナーをコンセプト上に描いていたことから、この部分がサラダバーとなった。
この記事は、私が上海進出することになった経緯と、そのストーリーを書いています。
(4)より続く


上海へ出店を決めた私は、この両社長と共に、物件探しに奔走したのですが、私は変わり果てた上海がもう全くリサーチが出来ませんでした。

そこで、現地の王君を頼りに調査を開始したのでした。
出てきた物件は、四川北路の角地に新築のショッピングプラザが出来ているところでした。出店予定会社として「吉野家」「ユニクロ」「ピザハット」などの日本企業が予定されていたのです。

さらに、この地域は昔日本人の疎開街であったことや将来的に、南京東路と同じように歩行者専用道路になるということで、立地的には申し分のない立地を選んだのです。

しかし、このビルのオーナーが台湾人で両社長の実績や企業規模に関係なく、これまでの実績や信用度の高い資料を出してくれとの要求で、結局、私の出版物や経歴、などを資料として何とか賃貸契約を承諾してくれたのです。

さて、業態開発は、ハンバーグとカレーの店としました。
中国人はカレーを余り好かないのですが、スーパーにあるカレーは凄い売れ行きであったことから、必ずカレーが売れる、と考えたことからスタートしました。

また、上海は日増しに洋風文化を取り入れていることに注目して、ハンバーグも併用することになったのです。

当時は、日本のファミレスの切っ掛けがハンバーグステーキであったように、ハンバーグが流行するであろうと読んだのです。

店舗デザインは、名古屋のセントラルデザイン黒野 茂氏に決めて、商品アドバイザーには、当時、帝国ホテルの,"ラ・セゾン"の総調理長であった深沢邦夫氏、そしてアシスタントとして私の教え子である村田 祐司氏をプロジェクトとしてスタートを切った。

この現地法人の社長は、両社長が王君を任命してスタートとなったのでした。
しかし、心配がありました。まず、食材の入手です。

当時は、中国の牛肉はとてもステーキになど出来るレベルではありませんでしたし、カレーも甘口の彼が売れている実情から、商品作りに懸念していたのです。
この記事は、私が上海進出することになった経緯と、そのストーリーを書いています。
(3)より続く

海外事業計画を引き受けることになったわたしは、早速、事業計画書の作成と共に、中国の出店立地調査に入ることになりました。

まずは、富田社長が深川とは別に北京にも営業会社を設立してあったことと、私の友人が北京にいることから、オリンピックを控えて話題になっている北京から調査を始めることになったのです。

北京の中心街「王府井」を見学、そこに"麺愛愛"を見つけました。
日本のラーメンを提供しているのですが、食べてみても余り美味しさはない!

しかし、北京でスタートするならば、麺ショップが有利と見て帰国したのです。
次に、私が修行していた上海へ調査に入りました。

上海の浦東空港に着くなりびっくりしました。私が修行していた当時は、国民服に身を包み、自転車やオートバイに乗って朝夕は道がふさがってしまうほどでしたのに、高速道路にはイルミネーションが施され、もう全く違う町へ変貌していたからなのです。

この上海には、もう一人の社長の知人がいて、この知人と共にリサーチをしたのです。
彼がこれから私の会社へ携わることになる"王君"でした。

彼は、学生時代に東京にいたらしく、日本語が上手でいい男でした。年齢は30代後半で子供が一人いる生活でした。

彼の案内で、上海を3日間かけて歩きました。
しかし、どこへ行っても人だらけです。しかし中心街には日本と同じようなデパートが立ち並び、そこを利用するお客様も日本の買い物客と余り変わらない様子でした。
私が働いていた「梅龍鎮酒家」のまえにも日本のデパートが出来ていました。

私は、北京よりも上海の方がビジネスにはむいていると言うことを感じて、富田社長へ伝えたのです。

「社長!出店は上海に決めましょう!食生活がドンドン向上しているこの町ならば、何でもやれます。しかも、オリンピックが終われば直ぐに世界博覧会が上海で開催されることから、当分は上海で有名な店にして北京、広東、大連と伸ばしていきましょう。」

こうして、私の提言によって一号店は上海へ出店することに決定したのでした。
この記事は、私が上海進出することになった経緯と、そのストーリーを書いています。
(2)より続く

帝国ホテルのロビーにて10人近い男たちの会議が始まりました。
まず、相手方のもう一人の社長が口火を切りました。
「先生!私たちは中国でこれまでに沢山儲けさせていただきました。現在でも、富田社長は上場会社にまで成長させてゴルフクラブメーカーとしては、私とライバルなのですが、面倒を見てもらっています。」
私が中国進出を果たした経緯と、その経過を書いてみることにします。
これは、私が中国進出を考えている方々に何らかの参考にでもなればと言う思いで書こうと考えています。(1)から続く

帝国ホテルのロビーに集まったこの会社はどのような会社なのか全く分らなかった。
その中に一人、どうもこの会社の社員ではない、もう一人の社長がいることが分ったのです。

その社長がいきなり今日の話の口火を切ったのです。
「始めまして、私は、こう言う者ですが、こちらがA社の富田社長です!」

この紹介された社長と、富田社長とは、どうも同業者らしいのでした。
この紹介が済むと、この富田社長が穏やかな口調で話し始めたのです。

「実は、原田 諦先生!わし等は、中国の深川と言うところで、ゴルフクラブの製造をしておりまして、香港市場へ上場している会社です。」

私は、この物々しい感じに何と無く堅苦しくなりました。そこで、
「はあ~、しかし、私にどのような御用なのでしょうか?どこで、我社を知ったのでしょう・・・・?」

このように聞き出したのでした。
すると、
「実は、私どもは、何社かのコンサルタント会社へ問い合わせたのですが、貴方の会社の受付の電話対応が一番素晴らしかったので、このようにキチンとした教育が行き届いている会社ならば、大丈夫だろうと言うことで、原田 諦先生の会社に決めようと相談したのです。」

何でも、この社長たちは、仕事の依頼をしようとしていたのでした。
それも物々しく、8名社員を引き連れて物々しい様子に私は、些か大げさな人たちだな~、
と言う風にしか捕らえていなかったのです。
私が中国進出を果たした経緯と、その経過を書いてみることにします。
これは、私が中国進出を考えている方々に何らかの参考にでもなればと言う思いで書こうと考えています。

平成2年3月、今日と事務所に一本の電話が鳴りました。
当時、私は京都の地域産業に関わるコンサルティングをしている最中でした。